吃音と10年間の戦いに、ひとつの決着がついた話——そして曝露療法という新たな道へ

負けを認めた日のこと

決心したのは、ある意味では静かな瞬間でした。

10年以上続けてきた発声練習を、もうやめようと思った。

吃音を改善しようと、神経可塑性に期待して、新しい発話回路を構築しようと、毎日練習を続けてきました。それなりに真剣に、それなりの時間をかけて。しかし残りの人生のリソースを冷静に考えたとき、これ以上吃音改善にエネルギーを費やし続けることは、もうできないと思った。

決心した瞬間、複雑な感情が入り混じりました。

「あれだけ戦ってきたけど、もう終わるんだな」という、ある種の敗北感。そして同時に、「もう頑張らなくていいんだ」という、長年背負ってきた荷物をようやく下ろせたような感覚。

どちらが強かったかと言えば、正直よくわかりません。両方が本当でした。


それでも「諦め」ではなかった理由

ただ、この決心は単純な白旗ではありませんでした。

私がたどり着いた「戦略的非介入」というスタンス(詳しくは吃音履歴書③をご参照ください)は、吃音を無視することでも、諦めることでもなく、吃音に対する認知そのものを変えていこうとするものでした。

私の状態は、専門家から「吃音症というより吃音恐怖症に近いかもしれない」と言われたことがあります。日常会話ではほとんど吃らない。しかし特定の場面——取引先への電話で会社名と名前を名乗る瞬間——では、かなりの確率で症状が出る。

この状態において、介入し続けることは逆効果になり得ます。練習すればするほど、脳に「名乗りは修正が必要な重大な問題だ」というシグナルを送り続けることになるからです。

だとすれば、必要なのは逆のアプローチです。

「吃音は警戒すべき重要事項」という、脳に刷り込まれた認知を、「本来、何も警戒することなどなかった」という自然な状態にアジャストしていく。介入をやめることで、重要度を下げていく。

これは諦めではなく、むしろ改善を目指す別の道だと、当時の私は理解していました。


ひとつ大きな勘違いがあった

ところが最近、自分の「非介入」に重大な勘違いが含まれていたことに気づきました。

私は電話での名乗りを、ほぼ完全に回避していました。

「もしもし」だけで入る。「お世話になってます」だけで入る。言えそうな時だけ名乗る。言えなそうな時は、最初から名乗らない。

これを「非介入」だと思っていました。結果を気にしない、逃げてるとか逃げてないとか関係ない、「はい知らん、次」という姿勢が非介入だと。

しかし脳は、気持ちの上で気にしているかどうかでは学習しません。行動の事実で学習します。

名乗らなかった、という事実が積み重なるたびに、脳は「名乗りは避けるべきもの」という回路を粛々と強化し続けます。感情をどれだけフラットに保っていても、回避という行動が恐怖回路を維持し続けている。

私がやっていたのは「苦しまずに回避する」という、ある意味で洗練された回避でした。


吃音には、全く逆のアプローチが存在する

ここで少し整理しておきます。

吃音の治療アプローチには、大きく分けて2つの方向性があります。

ひとつ目は、介入するアプローチです。 流暢性形成法に代表されるこの方向性は、発話運動そのものに働きかけます。呼吸法、発声のタイミング、話すリズムを丁寧に再構築していく。神経学的・筋肉的な発話の非流暢性が中心にある吃音には、このアプローチが合理的です。

ふたつ目は、介入しないアプローチです。 私のケースのように、発話運動自体はほぼ正常であるにもかかわらず、特定の場面への恐怖と回避が中心になっている場合、直接介入するほど逆効果になり得ます。「吃音は修正すべき深刻な問題だ」という認知が強化されるからです。

同じ「吃音」という言葉でも、メカニズムが全く異なることがある。これが吃音の複雑さであり、私が10年かけてようやく気づいたことでもあります。

そして私の場合、必要なのは介入をやめることではなく、回避をやめることでした。


曝露療法という考え方

ここで、曝露療法(Exposure Therapy)について触れておきます。

曝露療法は、不安障害や恐怖症の治療においてエビデンスのある心理療法です。その核心は、恐れている状況に実際に直面し、破局的な結果が起きないことを体験的に学習するというプロセスにあります。

近年注目されているのが「抑制学習モデル(Inhibitory Learning Model)」という考え方です。恐怖の記憶そのものを消去しようとするのではなく、「この状況は実は安全だ」という新しい情報を上書きしていくことを目指します。

ここで重要なのが、結果への反応を小さくすることです。

うまく言えた時も、盛大に詰まった時も、同じ温度感で流す。「まぁそうか、次」と。成功を大喜びすることも、失敗を深刻に反省することも、どちらも脳に「ここは重要な場面だ」というフラグを立てる行為になります。必要なのは、重要度そのものを下げていくことです。

私のケースに当てはめると、こうなります。

準備せず、さっと電話を取る。名乗ろうとする。詰まっても、沈黙しても、最後まで言い切る。そしてどんな結果でも、分析も評価もしない。


これがどれだけ難しいか、という話

吃音当事者でない方には、少しイメージしにくいかもしれません。

静まり返った会社の事務所で、電話が鳴ります。

周りの同僚たちは自分の作業をしています。でも電話が鳴った瞬間、その空間の空気が微妙に変わる感覚があります。少なくとも私にはあります。

取るべきか。でも名乗る瞬間が来る。会社名、自分の名前。この固有名詞たちは、私にとって最も難発が起きやすい音の集合体です。助走なしに、いきなり地雷原に飛び込むようなものです。

それでも取ります。「はい、〇〇会社の——」

詰まります。沈黙します。口元だけがかすかに動いています。電話口の相手は待っています。その沈黙の気まずさは、受話器を通じて事務所中に伝わっていく気がします(実際はそんなことはないとわかっていても)。

やっと言葉が出ます。

その後の通話は普通にできます。用件も、受け答えも、問題ない。しかし電話を切った後、事務所に漂うあの微妙な空気。気づいていないふりをしてくれている同僚たち。自分の耳に残るあの詰まった音。

これを「どうでもいい、次」と本当に流せるかどうか。

これが曝露療法の実践の、実際の難易度です。


「諦め」どころか、むしろ逆だった

冒頭の話に戻ります。

10年間の発声練習をやめると決めた時、私は「負けを認める」という感覚を持ちました。しかし曝露療法という考え方にたどり着いた今、その感覚は完全に塗り替わっています。

発声練習をやめることは、戦いの終わりではありませんでした。戦い方を根本から変えることでした。

そして新しい戦い方は、ある意味で以前より能動的です。怖い場面に準備なしで飛び込み、結果に動じない。これは受け身ではなく、かなり意識的な選択と実践が必要な行為です。

しかも、発声練習と違って、追加の時間はほぼかかりません。どうせかかってくる電話を、どうせ取る。その瞬間に名乗るかどうか、それだけの話です。

10年間諦めなかった姿勢は、間違っていなかった。ただ、方法が違っていただけでした。

そしてその姿勢と完全に矛盾しない、むしろ合致する新しい方法が見つかりました。


最後に

怖いです。今でも。

電話マークを見た瞬間の、あの感覚。「もしもし」だけで済ませたいという気持ち。名乗ると決心した瞬間に、なぜか幼少期の緊張した記憶が浮かんでくるような、あの感覚。

それは変わっていません。

でも、その恐怖は曝露が必要だというサインそのものです。怖くない場面を曝露しても意味がない。

怖いまま、取る。詰まったまま、言い切る。そして「まぁそうか、次」と流す。

これを積み重ねていく話です。

諦めとは、少し違うと思っています。


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