吃音と曝露療法——「介入しない」と決めた私が、なぜか考察してしまう件について

さて、吃音に対して戦略的非介入のスタンスである私ですが、
(何のことか分からない方はこちらの記事をご参照ください)
これから、吃音と暴露療法について考察していきたいと思います。

「吃音の考察記事なんて、介入そのものでは!?」という自然な疑問については、
「そこは深く考えない」という、非介入の立ち位置でいきたいと思います。

では始めます。


「あなたは吃音症ではなく、吃音恐怖症かもしれない」

以前、複数の専門家に相談した経験があります。そのうちのお一人に、こう言われたことがあります。

「あなたの状態は、吃音症というより、吃音恐怖症と言った方が正確かもしれません」

その頃の私は、長年続けてきた発声練習の効果かどうかは正直わかりませんが、日常会話ではほとんど吃らなくなっていました。しかしその一方で、特定の場面では以前よりも強く吃るようになっていた。

具体的には、取引先への電話で会社名と名前を名乗る瞬間です。

日常会話は問題ない。しかしこの一点だけが、まるで地雷原のように機能していました。

この専門家の見立ては、今振り返ると非常に的確だったと思っています。


介入し続けた10年と、その限界

吃音を改善しようと、私は長い間「介入」し続けてきました。神経可塑性に期待して、新しい発話回路を構築しようと発声練習を重ねた期間は、10年近くに及びます。

しかしある時期から、自分の状態を深く観察するようになって、気づいたことがありました。

練習すればするほど、脳に「名乗りは修正が必要な重大な問題だ」というシグナルを送り続けているのではないか、と。

吃音の改善を目指す行為そのものが、「名乗りは特別な重要イベントである」という認知を毎日強化していた可能性がある。

これは直感に反する話です。しかし、吃音には大きく分けて2つのタイプが存在することを理解すると、腑に落ちてきます。


吃音には、全く逆のアプローチが存在する

ひとつ目は、介入するアプローチです。

流暢性形成法に代表されるこの方向性は、発話運動そのものに働きかけます。呼吸法、発声のタイミング、話すリズムを丁寧に再構築していく。神経学的・筋肉的な発話の非流暢性が中心にある吃音には、このアプローチが合理的です。

ふたつ目は、介入しないアプローチです。

私のケースのように、発話運動自体はほぼ正常であるにもかかわらず、特定の場面への恐怖と回避が中心になっている場合、直接介入するほど逆効果になり得ます。「吃音は修正すべき深刻な問題だ」という認知が強化されるからです。

同じ「吃音」という言葉でも、メカニズムが全く異なることがある。これが吃音の複雑さであり、私が10年かけてようやく気づいたことでもあります。


「非介入」の盲点——回避という名の罠

しかしここに、大きな落とし穴がありました。

私は「非介入」のスタンスをとりながら、実際には電話での名乗りをほぼ完全に回避していました。

「もしもし」だけで入る。「お世話になってます」だけで入る。言えそうな時だけ名乗る。

これは一見、余計なプレッシャーをかけない賢い対処法に見えます。しかし脳の学習という観点から見ると、全く別の話になります。

脳は「気持ちの上で気にしているかどうか」では学習しません。行動の事実で学習します。

名乗らなかった、という事実が積み重なるたびに、脳は「名乗りは避けるべきもの」という回路を静かに、着実に強化し続けます。「逃げてるな、まぁいいか」と気楽に思っていても、その気楽さは感情の話であって、行動レベルの回避がもたらす学習とは無関係です。

これが私の盲点でした。


曝露療法という考え方

ここで、曝露療法(Exposure Therapy)について触れておきます。

曝露療法は、不安障害や恐怖症の治療において、エビデンスのある心理療法のひとつです。その中核にあるのは、恐れている状況に実際に直面し、破局的な結果が起きないことを体験的に学習する、というプロセスです。

特に近年注目されているのが「抑制学習モデル(Inhibitory Learning Model)」という考え方です。これは、恐怖の記憶そのものを消去しようとするのではなく、「この状況は実は安全だ」という新しい学習を上書きしていくことを目的としています。

重要なのは、結果への反応を小さくすることです。

うまく言えた時も、盛大に詰まった時も、同じ温度感で「まぁそうか、次」と流せるかどうか。成功を大喜びすることも、失敗を深刻に反省することも、どちらも脳にとっては「ここは重要な場面だ」というフラグを立てる行為になります。必要なのは、重要度そのものを下げていくことです。

私のケースに当てはめると、こうなります。

準備せず、さっと電話を取る。名乗ろうとする。詰まっても、沈黙しても、最後まで言い切る。そしてどんな結果でも、分析も評価もしない。

シンプルですが、これが恐怖回路を書き換えていく道筋です。


これがどれだけ難しいか、という話

吃音当事者でない方には、少しイメージしにくいかもしれません。

静まり返った会社の事務所で、電話が鳴ります。

周りの同僚たちは自分の作業をしています。でも電話が鳴った瞬間、その空間の空気が微妙に変わる感覚があります。少なくとも私にはあります。

「また鳴った」

取るべきか。でも名乗る瞬間が来る。会社名、自分の名前。この固有名詞たちは、私にとって最も難発が起きやすい音の集合体です。

助走なしに、いきなり地雷原に飛び込むようなものです。

それでも取ります。「はい、〇〇会社の——」

詰まります。沈黙します。口元だけがかすかに動いています。電話口の相手は待っています。その沈黙の気まずさは、受話器を通じて事務所中に伝わっていく気がします(実際はそんなことはないとわかっていても)。

やっと言葉が出ます。

その後の通話は普通にできます。用件も、受け答えも、問題ない。しかし電話を切った後、事務所に漂うあの微妙な空気——気づいていないふりをしてくれている同僚たち、自分の耳に残るあの詰まった音——これを「どうでもいい、次」と本当に流せるかどうか。

これが曝露療法の実践の、実際の難易度です。

理屈ではわかっています。頭では整理できています。しかし体と感情はまた別の話で、「なんでもないこと」として処理するためのキャパシティは、一朝一夕では育ちません。

でも、やるしかない、とも思っています。


最後に

介入し続けた10年を経て、私がたどり着いたのは「介入をやめる」という選択でした。しかしそれは「諦める」ことでも「逃げる」ことでもなく、怖い場面に飛び込みながら、その結果に動じないという、ある意味で最も能動的な取り組みです。

うまくいく日も、盛大に詰まる日も、どちらも同じ。

「まぁそうか、次」

これを積み重ねていく話です。


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