吃音(きつおん)と向き合い続けて何十年。
今、私はひとつの結論にたどり着きました。
「もうこれ以上、吃音の改善を追い求めるのはやめよう」と。
これは、諦めたわけではありません。むしろ、長年の取り組みを経てようやくたどり着いた、“自分なりの解放”だったのだと思っています。
この記事では、これまでの取り組みや感じてきた変化、今の心の持ちようについて、正直に綴ってみたいと思います。
発声練習がくれた「ある種の安定」
今では、吃音で困る場面はごく限られています。
年齢的な落ち着きという面もあるのかもしれませんが、私は長年続けてきた発声練習の効果だと感じています。
特に、「あぁ、自分は良くなったな」と感じる場面は2つあります。
1. 自分から電話をかけるとき
2. 相手の名前を呼ぶとき
昔は、現場で指示を出すとき、相手の名前がどうしても出てこず、わざわざ真横まで接近して、名前を呼ばずに突然指示内容を話し始めるようなこともありました。
もちろん、作業に集中している相手には気づかれないこともあり、言葉が詰まったまま何も言えず、ただ惨めな気持ちになる…そんな経験を何度もしました。
話し方の“神経経路”を作り直すという発想
私が影響を受けた理論のひとつに、山口先生(または山口さん)の考えがあります。
吃音者の話し方(より正確に言えば、発話時の神経パターン)は、
> 「いつ吃ってもおかしくない状態」で話す
という状態になっている、という考え方です。
そのため、「吃音が出にくい新しい神経経路(話し方のパターン)」を構築する必要があるとされます。
これは、一朝一夕で変えられるものではありません。
まずは一人での発声練習を通じて“新しい話し方”の土台を作り、それを少しずつ、実際の会話の場面に反映していく。
私もこの考え方に納得し、地道に発声練習を続けてきました。
なお、こうした「神経パターンの再構築」というアプローチは、他の専門家の理論にも共通して見られます。
苦手な場面も、もちろん今でもある
一方で、今でも吃音が出やすい場面はあります。
それは、仕事中にお客様から電話を受けるときです。
私は仕事柄、お客様対応の電話がそこそこありますが、電話を受ける側になると、一気に緊張感が高まるのを感じます。
一時期は「サ行の会社名」に救われていた
実はこの電話応対、ある時期までは比較的スムーズにできていました。
というのも、勤めている会社名がたまたま得意な“サ行”から始まる名称で、電話に出るとき最初にその会社名を名乗ることが、“とても良い助走”になっていたのです。
得意な「サ行」の発音を先に出すことで、声の脱力感や自然なリズムが生まれ、その流れで自分の名前もスムーズに言える…という黄金パターンが完成していました。
私は本気で、その会社名に感謝していました。
絶対だった“助走”が効かなくなったとき
ところがあるとき、その絶対的だった“サ行”の会社名でさえ、吃音が出るようになりました。
このときは本当に衝撃で、少し大げさに思われるかもしれませんが、絶望に近い感覚がありました。
発声練習を2倍の時間に増やして取り組みましたが、結局、1年間まったく改善は見られませんでした。
フィジカルだけじゃない。メンタル面にも向き合った時期
私はもともと、吃音は「フィジカルな問題(身体の使い方)こそが本質」だと考えていました。
メンタルの不安や緊張は、その二次的な結果にすぎないと。
しかしこの時期は、さすがにメンタル面も無視できず、吃音は心身両面からアプローチすべきという考えにも理解を深めました。
吃っている自分を観察し、詳細にメモをとり、アファメーションも毎日行う。
吃音のことばかりを考え、かなりの時間とエネルギーを費やしていた時期でした。
50歳を目前に、ひとつの決断をした
そんな中で、ふと思ったのです。
「これからの人生、吃音ばかりに時間を使っていていいのだろうか?」
50歳が近づき、家族との時間、自分のやりたいこと、限りある人生のリソースをどう使うかを考える中で、私はある決断をしました。
> 吃音の改善を、もう追求しないことにしよう。
今も続けていること、でも“軸”はもうそこじゃない
発声練習は、今でも続けています。
一回の練習時間は短くなりましたが、これはもう日課として自然に残っているものです。
ただ、もう吃音のことを深く考えることはありません。
吃っても、「まぁ、もう別に関係ないし」と、気にしないで流せるようになってきました。
不思議なもので、この“開き直り”とも言える心持ちになってからのほうが、吃音はむしろ減ったように思います。
でも、だからといって「なぜ改善したのか?」という考察には、もう入りません。
もう、それを追いかけることは人生の主なテーマから外したからです。
> 「なんか少し楽になってきたな。このまま改善したらラッキー。でも、しなくてももう人生の軸はそっちじゃないから気にしない」
これが、今の私のスタンスです。
おわりに|向き合い方を変えたら、自由になれた
吃音は、確かに私の人生の一部でした。
悩みも、努力も、涙もありました。
でも今、その悩みにとらわれない生き方を選んだことで、ずっと心が軽くなりました。
これからも吃音が出る場面はあるでしょう。けれど、それはもう「自分の中にある一つの特性」として受け止められるようになってきた気がします。
私は吃音を人生の中心から外すという道を選びましたが、それはあくまで私自身の選択です。今でも、本来は克服を目指して努力することが王道だと思っていますし、その道を進む人を心から応援しています。
この記事が、同じように吃音と向き合っている誰かの、小さなヒントや安心材料になればうれしいです。
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